「黒沢清、21世紀の映画を語る」抜き書き

「黒沢清、21世紀の映画を語る」を読んだら予想した通りの名言連発だったので、グッときた文章を抜き書きしてみた。
これこそがホラー映画だと僕は思います。すなわち「世界には絶対に理解できないものが存在する」とわかった瞬間の恐怖、あるいは「どうやら世界は、それまで自分が信じてきたものと全然違うようだ」と知った瞬間の暗澹たる気分、そういった人間の感情を描くのがホラーである、と僕は考えています。
かつて世界はこのようであった、やり直しはできない、それが記録されているのが映画という表現なのです。
「存在していること」が「見ること」によって保障され、同時に「見ること」の可能性が「存在そのもの」によって極限まで高められる、これが作る側と見る側とが共に経験する映画というプロセスなのではないでしょうか。
映画館という場が常に問いかけてくることは「世界のなかで、あなたは一体何者なのか?」ということなのではないでしょうか。これほど映画というメディアにふさわしい問いかけも他にないと思います。
素晴らしい映画の物語の大きな転換点というのはこのように生々しく、衝撃的に、しかもあっけなく、かつ1ショットで撮影されるものなのだ
アニメーションと映画は違う。僕が考える映画とは、「気に入った空の雲」や「凄い風景」に一回限りたまたま出会って、その瞬間をすかさずカメラに収めることから成立している表現のことです。
映画を作ることは、何もない真っ白なキャンパスに絵を描く行為とは全然違うし、白いノートにペンで文章を書く行為ともまったく違っています。映画作りとは、切り取ることなのです。目の前にあるものを四角いフレームで切り取ること、それが映画作りです。当然、切り取った外側には、画面には映っていないものがたくさん、果てしなく、無限に広がっているわけです。
映像には、単に写真が動いていますというだけではない、ものすごい力が秘められていたのです。世界の空間と時間とを切り取ってしまう力です。
(「リダクテッド」について)映画でイラク戦争批判をやるなら、これはやはり「痛快にやる」とか「あっと驚くようなやり方でやる」とか「したたかにやる」とか、そのようでなければならないと思う。もっと言えば、映画でイラク戦争を題材にした場合、まず何より冷徹に、客観的に、それでいて手に汗握る、極上の戦争映画を目指すべきで、その上で、痛烈なイラク戦争批判になっている。そのようなものがベストである、と僕は直感するのです。
カメラで撮る、つまりそれは脚本を書いているときに頭のなかで想像していた様々なドラマ、物語性、エモーションといったものが、見事に次々と全部剥ぎ取られていく行為なのです。カメラとは、あらゆるものから「物語」や「ドラマ」を剥ぎとってしまう機械のようなのです。
映画とは、時間と空間がどんどん飛んでいく表現形式なのです。100分ほどの劇映画なら、ばらつきはありますが、だいたい90シーンくらいあると考えていいでしょう。つまり、1シーンに約1分ちょっと。大ざっぱではありますが、通常の劇映画とは、1分半くらいの持続と90の断絶から成立している。
映画における強烈な人間描写とは、単純に俳優がそういう演技をして、そういう顔の表情の芝居をすればいい、というものではなく、もっと巧妙で繊細で、俳優の演技だけに限らない。風がふいたりだとか、エンジン音を響かせるチェーンソーだとか、映画全部がそれだを表現している。
どのみち映画は、フレーム外のあらゆる現実を遮断したところに成立する虚構であると同時に、映っていないはずの現実の強力な影響下にあります。だったら、カメラはぎりぎりの境界線に置け。物語は世界全体にかかわるようなものであれ。そこで右往左往することは難解でも観念的でもなく、必ずや多くの人々の日常感覚に根ざしたものになるだろう。
21世紀の才能ある監督は、世界のどの国であっても、どうも河、あるいは河べりという場所にひかれている。そしてこの場所で、ほのかに見え隠れしたり、ときにはずばりと目の前に露呈したりする、外の世界とそこに満ちている暴力について、思いをはせている。